岩手県の南東部に位置する陸前高田市。ここにはかつて70000本ものアカマツやクロマツが立ち並ぶ、「高田松原」という美しい松林が、沿岸2キロにわたって続いていました。
この松林がつくられたきっかけは、1666年。田畑に被害を及ぼす塩害や強風を防ぐために、気仙郡高田村(現・陸前高田市高田町)の豪商・菅野杢之助が仙台藩主・伊達綱宗からの命を受け、立神浜という長さ440メートル、幅220メートルの場所に松の植栽を行ったことが始まりでした。
その翌年、延べ200人を動員して、約6200本の松を植えましたが、半分程度しか根付かず、さらに1673年までの7年間に延べ672人を動員し、18000本の松を植えましたが、無念にも杢之助は志半ばに倒れてしまいました。
杢之助の強い遺志は、息子の七左衛門に受け継がれ、親子二代の努力により、ようやく高田松原が完成しました。
それから50年後の1724年には、旧仙台藩の主要金山の一つ、玉山金山を治めていた松坂新右衛門が、気仙川流域の新田の塩害、風害、洪水を防ぐため、同じく仙台藩の命により今泉村(現・陸前高田市気仙町)に松の植林をしました。
人々は、杢之助が植えた松原を「高田松原」、新右衛門が植えた松原を「今泉松原」と呼んでいましたが、1955年、町村合併によって高田村と今泉村は同じ陸前高田市となり、2つの松原を合わせて「高田松原」と呼ばれるようになりました。
1930年に東北十景に選ばれたのを皮切りに、その後、国の名勝や日本百景、国立公園に指定されるなど、人々にとってふるさと自慢の宝物となりました。かつて、1896年の明治三陸地震大津波や、1933年の昭和三陸地震大津波、1960年のチリ地震津波で大きな被害が出ましたが、その都度、地域の人々が見事に蘇らせ、大切に守り継がれてきました。
そんな高田松原も、この度の震災では、7万本もあった松たちが跡形もなく流されてしまうほどの脅威的な大津波に襲われました。人々は深い深い悲しみと、恐怖と絶望の中で、1本だけ残った松の木を見つけました。
「あぁ! なんということだ!! あれだけの大津波にも耐え忍び、お前は生き残ってくれたのか!」
生き残った一本松は、「奇跡の一本松」と呼ばれ、震災からの復興を支える希望の象徴になりました。
一本松との約束
震災から数日後の星のきらめく夜のこと。スターリィマンは、流れ星に導かれて一本松に会いに陸前高田を訪れました。
スターリィマンが、傷ついた松の体にそっと触れると、松の木は天まで響く大声で「おぉーおぉーおぉー」と泣き叫び、それから辛さを飲み込むように、ゆっくりと語り始めました。
「あの時、仲間の松たちは、それぞれに、わしを助けるために、わしの根っこや幹や枝を命がけで支えてくれた」
〈親方! どうか踏ん張って踏ん張って、踏ん張ってくださいよ。よいか! みんな! 力を合わせて、親方を支えるのじゃ。親方は、この松原が生まれた時代から300年以上も生きてこられた大事なお方。さぁ、みんな! 最後の最後までお守りするのじゃ!〉
〈親方、わしらは親方と共に生きられて、みんなに大切に愛されて、本当に幸せでしたよ。ありがとう! ありがとう!! 親方、どうか、どうか、わしらの分まで生きて、ふるさとの人々を見守り続けてください!〉
「そう言い残し、仲間たちは次々に流されていった。わしは、彼らを助けることも出来ぬまま、息絶えていくのを見届けることしか出来なかったんじゃ」
「スターリィマン、わしもたくさん塩辛い海の水に浸かったからのう。そう長くは生きられん。しかし、わしはもう十分生きた、もう何も思い残すことはない。しかし、残されたふるさとの人たち、日本中の人々は、これから多くの困難を乗り越えなければならぬ。
どうかみんなに希望や元気を、夢をあきらめないで叶えていく勇気を。みんなが愛を忘れずに、信頼や友情を築きながら、幸せな未来を創っていけるように、夢を叶える九つの風船を届けてはくれまいか?どうか、わしの願いを叶えてはくれんか!?」
スターリィマンは、松の木の全身全霊の願いをしっかりと受け止め、深くうなずきました。
「松の木さん、分かりました。必ず日本中のみんなに届けると約束します!」
スターリィマンは固く誓うと、松の木の体をやさしく抱きしめました。そして、松の木に輝く願いの星たちを九つの風船に詰めていきました。
「スターリィマン、ありがとう」
こうしてスターリィマンは、松の木の願いが込められた風船を日本中に届けるために明けゆく陸前高田の町を旅立って行きました。
